2006.04.12 Wed
RP日記 副官物語(2)
アテネの日差しは強く、影は色濃い。
すべての風景の輪郭が鮮やかで、眼を細めずにはいられないそんなアテネの昼下がり、俺はと言えば、風通しの良い室内で、投資申請書の作成に追われていた。
インドでの戦闘の経験が認められ、俺はついに、現状最強の砲撃艦である戦列艦に乗ることが許された。それがゴールラインかといえば、決してそうではなく、やっと真のスタートラインにたった、というところなのかもしれないが、それでも、ほっと一息、というのが本音だ。
小さな四角い窓に切り取られた1枚の絵のような按配で、晴れ渡った青い空を背景にオリーブの枝が揺れている。
乾いた風の吹き抜けるこの地の暑さは、そう不快ではない。申請書に紅花の染料で印を押してから、俺は一休憩と、ぬるくなった、酸味の強いワインを呷った。
書類整理の類は嫌いではない。
生物学の資料なんぞも、丁寧にまとめて、キャビネットに収めてある。そんなわけで、この作業は苦にはならなかったし、この街にまつわる記憶が決して甘いものでないのにも関わらず、多くの伝説と神話と歴史の息づくこの地は、ずいぶんと居心地が良い。結果、俺はだらだらとアテネに滞在していた。
この地では2度の海戦を経験した。
強大な連合軍相手に、イングランドはどちらの戦いにおいても敗北を喫した。だが、そんな苦しい戦いのなか、良い仲間を得、良い敵を得た。
だからまあ、アテネ、と言った時に、胸を満たすのはある種の柔らかい高揚だった。飛び交う砲弾。怒号。轟音。息遣い。歓声。そして潮と錆と汗の匂い。
「船長、お客さんですぜ!」
そんな感慨に浸っていたので、いきなり響いた無遠慮なでかい声に、俺は思いっきり羽ペンの先を羊皮紙に滑らせてしまった。
渋面で無駄にしてしまった書類を眺める俺に、副官として船医を務めるクアトロチェントは、その図体に相応しい野太い笑い声を上げた。
「まぁた起きたまま夢みてたんですかい、船長。しっかりしてくだせえ」
あまりといえばあまりな言葉に反論する気も失せて、「客?」と、当り障り無く聞き返すと、
「なにやら英国出身って言うボウズが、船長に会わせろと、騒いでるんですがね」
その言葉が終わるか終わらないかの内にさらにけたたましい声が、室内に響いた。
「やっぱりカートさんだ!」
「あ、こら、坊主! おまえ、勝手に…!」
制止しようと伸ばされたクアトロチェントの腕を身軽にかいくぐって、室内に飛び込んできたのは、小柄な青年。金髪と快活そうなはしばみ色の瞳。そしてスコットランド訛りの英語――
「おまえ…ヒースクリフ…?」
まだ俺が海軍士官として、北海をうろうろしていた頃に、ロンドンで出会った青年だ。インドに行きたいが乗せてくれる船がない、と嘆いていたので、知人の船を紹介してやったのだった。その後、音沙汰がないから、インド海賊かムガール私掠艦隊あたりの餌食になったかと思っていたが…
「覚えていてくれたんっすね!」
忘れるわけもない。インド行きの与太話を夜中聞かされたのだから。この青年、童顔とは裏腹に、滅法酒に強い。口数も多い。
しかし、彼の話が実現していたなら、彼は悠々とガレアスあたりを乗りこなしているはずだが、どうも未来日記が実現した風でもない。
「なんでおまえがアテネに居るんだ? インドはどうした」
……目を逸らされた。
かと思えば、がば、と、勢いよく身を乗りだして――
「それはともかく、カートさん! 優秀な兵長は欲しくない? カートさん、いかにも白兵弱そうだし、すぐれた兵長が必要だと思うんだな」
「いらん世話だ!!」
思わず怒鳴ったが、今度はクアトロチェントに目を逸らされた。
………。
「カートさん、いかにもインドで海賊に拿捕されてるって感じだもんな! そこで、敏腕賞金稼ぎの俺が腕をふるって、船員を鍛え直す。どうだい? 俺を雇ってみないか?」
というか、こいつも、人の話を聞かない。
俺は本格的に頭痛を覚えて、眉間を揉んだ。これ以上アホに増えられても困る。お笑い戦艦一直線だ。
「……あのなあ、ヒースクリフ、悪いが…」
「いいじゃないか、船長。今は人手が足りねえ。イキが良いのが混ざったら、活気づくだろうし」
笑いながら、クアトロチェントがいらんフォローを入れた。
俺は言葉に詰まる。
たしかに、悪名を轟かせる大海賊に無謀な戦いを挑み、多くの船員を失った。新しく雇った水夫たちも、練度に劣るのは確かだ。アホでも、一応はインドを経験した賞金稼ぎなわけだし…
「……仕方がないか…。おまえ、船員を酔い潰しでもしたら、すぐにダブリンあたりに放りだすからな!」
「やったー!」などと、子供じみた歓声が響く中、俺は深い溜息をついていた。どうも、シリアス路線とは対極の艦隊になってきた。
「申請書づくりは終わりだ。――インドに行くぞ…」
鍛えなくては。
副官達を。そして、俺自身を。
未練がましく、テーブルの隅で文鎮がわりになっているスカラベの金細工に視線をやった。生物学者に戻れる日は、どうも、遠いようだ。
アテネの昼下がり 演習を行う軍艦の、砲撃の音が遠く響いた。
もうすぐ次の大海戦がやってくる――

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